「≋wave≋ internet image browsing」[ 8/29 (fri) – 9/12 (fri) ]


 

gazou

 

ネットワークが生み出した新たな感覚を持ったアーティストによるグループ展「≋wave≋ internet image browsing」を、829() より9月12日 (金) まで開催します。

 

1989年3月にティム・バーナーズ=リーがWWW (ワールドワイドウェブ) を提案して以降、人類はハイパーリンクを辿って世界中を旅するようになりました。今や、私達は文字だけでなく、音楽、画像そして動画ですら簡単に制作しウェブという海に投げ込むことが出来ます。それは今この瞬間も、言語・文化の壁を超え、複数の人間を介して消費され解釈され再創造されています。同展では、WWWの環境進化とともに共進化した新しい感覚のアーティスト達によるインスタレーション展です。

 

出展作家はMaltine Records主催のイベント「東京」のフライヤーを担当したことで注目を集めているグラフィックデザイナー/アーティストのRei Nakanishi。音楽雑誌『ele-king』やデザイン雑誌『idea (アイデア)』に掲載されるなど今注目のバンド§✝§のヴィジュアルイメージを務め、Tumblrでも一際注目を集める50civl。都市、という概念に常にインスパイアされながら、現代の想像力としての灰色の都市「東京」を服で表現し続けるファッションブランド・BALMUNG。インターネットの表現を和紙、顔彩、金箔などを用いて独自の手法で追求している≋՞.☹ア子water☹.՞≋ 。インターネットスカムパークでTumblrの楽しみ方について解説するなど、現代のインターネットに鋭い視点で関わり続け、インターネット感を持った抽象画を製作するurauny、という現代のインターネットを象徴する5組。本展は画像たちが国境を越え、出会い、お互いのシステムを変容させながら、独自の美学を構成するようになって以降のアートをテーマにした日本初の展示です。

 

本展の情報は、特設サイト ( http://internet-image-browsing.tumblr.com/ ) にて随時公開されるほか、8月9日 (土) 発売の雑誌『idea (アイデア) No.366』(2014年9月号) ( http://www.idea-mag.com/jp/publication/366.php ) にイベントの告知記事と、出展作家の作品画像と上妻世海が執筆したテキストが掲載されています。

 

 

TAV GALLERY STAFF

 

 

 作家プロフィール

 

BALMUNG ( http://www.balmung.jp )

Rei Nakanishi ( http://rei-nakanishi.tumblr.com/ )

urauny

50civl ( http://50civl.tumblr.com , http://50civl-girls-photo.tumblr.com/ , http://sas.yakiuchi.com , http://s4s666.tumblr.com )

≋՞.☹ア子water☹.՞≋ ( http://twitter.com/_23NO )

 

 

キュレータープロフィール

 

上妻世海(sekai kouzuma)

1989年生まれ。大学在学時、分析哲学、科学哲学をベースにフランス現代思想を専攻。在学中にダニエル・デネットとジル・ドゥルーズについての論文を執筆。卒業後、relational artの研究を通じて、集団性と生成の原理に注目し、2013年、森美術館で企画されたCAMP「現在のアート」にて、論文〈集団と生成の美学〉を発表。株式会社nubotにて商品のプランニング、フリーランスとしてウェブページのコンサルティングなどを経験し、2014年より「TAV GALLERY」のキュレーターに就任。

Twitter : https://twitter.com/skkzm

 

 

開催概要

 

名称 : ≋wave≋ internet image browsing
会期 : 2014年8月29日 (金) – 9月12日 (金)
会場 : TAV GALLERY (東京都杉並区阿佐谷北1-31-2) [03-3330-6881]
時間 : 11:00 – 22:00 (8月29日 (金) はオープニングパーティのため18:00-22:00)
休廊 : 木曜日

出展者 : BALMUNG、Rei Nakanishi、urauny、50civl、≋՞.☹ア子water☹.՞≋
キュレーター : 上妻世海
企画協力 : 高岡謙太郎、tomad、swaptv、渋家

WEB : http://internet-image-browsing.tumblr.com/

OPENING PARTY : 2014年8月29日 (金) 18:00 – 22:00

 

 

関連企画

 

□ 2014年8月29日 (金) 18:00 – 22:00

OPENING PARTY / §✝§ ライブ・Faeru DJセット

※ 入場料1,000円。海外セレブ御用達のインターネット水FIJIが飲み放題。

§✝§(さす)

5人組の日本、東京の各地に存在し得る、そうでなければ無比のWeb1.0賞賛に関しての表現、神秘学、魔女家、宇宙真理、ニューエイジ、生物学的スピリチュアルなどの超自然現象音楽革命などを目指すこと、宗教視界ものSFおよびサイバーパンクさえ含んでいる音楽ユニットになります。[サイバー、そしてそれ]サイバー宗教です。まだ持っておらず、遅くない速度を維持する脳の売上げ高が上げられます。

Faeru(ふぁえる)

2011年にBraincore RecordingsからHappyTortureFriends名義でEPをリリース。2013年maltine recordsのHD READYでサイトの音楽と画像コラージュを担当、2014年Faeru名義でmaltine recordsからEPをリリースするなど、精力的に活躍しているトラックメーカー。

 

□ 2014年9月7日 (日) 13:00 – 15:00 (事前講義) / 18:00 – 20:00 (公開対談)

上妻世海 × 黒瀬陽平 公開対談「POST-INTERNET IMAGE BROWSING – 自閉と横断の二つの側面から情報社会における創造性を考える -」

ネットワークが生み出した新たな感覚を持ったアーティストによるグループ展『≋wave≋ internet image browsing』の関連プログラムとして、展示期間中の9月7日 (日) 、美術評論家、カオス*ラウンジ代表の黒瀬陽平と同展キュレーター上妻世海の公開対談を開催します。

昨年12月に『情報社会の情念―クリエ イティブの条件を問う』を刊行したほか、2010年からネットを中心に活動するアーティストたちが集まる「カオス*ラウンジ」にキュレーターとして参加、 藤城嘘、梅沢和木と共にさまざまなプロジェクトを展開し、日本現代美術の歴史や文脈に対する批評的な活動で議論を呼んできた黒瀬陽平。

大学 在学時、分析哲学、科学哲学をベースにフランス現代思想を専攻し、在学中にダニエル・デネットとジル・ドゥルーズについての論文を執筆。卒業後、 Relational Artの研究を通じて、集団性と生成の原理に注目し、昨年12月に森美術館で企画された「現在のアート <2013> 」にて論文〈集団と生成の美学〉を発表。今回の展示を行うにあたって論文〈切断と接合の美学〉を発表した上妻世海。

黒瀬陽平の『情報社会 の情念―クリエイティブの条件を問う』は、パーソナリゼーションの弊害から拡張現実へと、そして正の拡張現実ではなく、負の拡張現実へと、そして情念定型 へと議論を進める論理構成になっており、対して、上妻世海の〈切断と接合の美学〉は、インターネットの持つもう一つの側面、横断性というワードについて、 そしてネットワークへの内在と関係性という方向での可能性を探求しています。

両者共に、非常に近いテーマを扱いながらも、異なる視点を持った キュレーターであり、「POST-INTERNET IMAGE BROWSING – 自閉と横断の二つの側面から情報社会における創造性を考える -」と題した、この公開対談では、インターネットの二つの側面、自閉性と横断性について、黒瀬陽平の『情報社会の情念』と上妻世海の〈切断と接合の美学〉 を元に、肯定的な部分、否定的な部分、両方を含め「情報社会における創造性」について語り合います。

また、同日、公開対談前には、上妻世海による「現在のポスト・インターネットを読み解くための5冊の書籍」と題した事前講義を行います。

※ 1,000円 (1ドリンク)
※ 本イベントはインターネットでの動画配信を予定しており、ご来場のお客様の映像が映り込む可能性がございますので、ご了承のほどお願い致します。

 

黒瀬陽平 (くろせ・ようへい)

美術家、美術評論家、美術予備校教師。2010年4月に「カオス*ラウンジ宣言」を発表後、藤城嘘と共同企画「カオス*ラウンジ in高橋コレクション日比谷」を開催。同年5月にカオス*ラウンジ企画第二弾として、ネットワークを使って遊ぶ「ギーク」達に焦点をあてた「破滅*ラウン ジ」を開催、様々な議論を呼ぶ。『思想地図』に掲載された公募論文「キャラクターが、見ている。──アニメ表現論序説」などでも注目を集める。主な論文に 「新しい「風景」の誕生 —セカイ系物語と情念定型」など。

 

 

コンセプト

 

 

画像がネットワークの海を国境を越境するようになって以降、生まれた新しいデザイン、グラフィック、絵画の表現を用いて、各々の世界観を構築する作家たちによるインスタレーション展。

今回の展示で構成される空間は2010年以降、頻りに言われるようになった“インターネット感”というワードと大きく関連している。

アーカイヴをディグし素材を集め、それをコラージュしたりエフェクトを掛けるような手法だけでは、説明の付かない奇形的な画像達。強烈なデジャブと痼のように残る違和感。

バラバラになった世界で、互いの主義がぶつかり合うと予想された未来。しかし、予想に反して私達は複数の領域を華麗に横断しながら自らのシステムを組み換え、コラージュ的に世界を再構成するようになった。

それがこの奇妙な感覚の原因だとしたらどうだろう? この展示では国境を越えて張り巡らされたネットワーク上をブラウジングしながら美的構成力を再構築した作家達による世界観の提示がみられるだろう。

世界は一つなのか、あるいは複数なのか? そういった語り尽くされた実在論と相対主義の対立ではない。私達は世界をバラバラに切断し、再度創造する。あるいは何度でも。

今のインターネットを語る上で絶対に見逃すことの出来ない展示となるだろう。

 

 

本展キュレーター 上妻世海

 

 

本展によせて

 

 

切断と接合の美学

上妻世海


 

 

――ひとはつぎのように白状しなければならないのだ、この物語は何にも似ていない、庭の敷居のうえのあの最初の朝からなにも変わらなかった、私もまたそんな風に告白したかったのに、そして私の割礼告白は始まる、マッキントッシュ・セットの中で層化された場所で、想起的で反復=複製可能でかつ傷つきやすい構造、両面トラックのフロッピーディスク、その愚か者たちは信じているのだ、コンピュータはエクリチュールを駄目にする、「曹長ペン」を持った善良なおばあさんを、親的なエクリチュールを、私の父のペン、私の母のペンを駄目にする、そして結局は分身、あるいはアルシーヴの問題を規制する、何というナイーヴさ、それは彼らがコンピュータで書いていないからなのだ。

ジャック・デリダ

 

 

ジャック・デリダが誤配可能性について語るとき、ウィリアム・バロウズが言語はウィルスだと語るとき、マーシャル・マクルーハンがグローバル・ヴィレッジについて語るとき、今や私達はその遅さに、その狭さに、その単純さに、退屈し本を途中で投げ出したくなる気持ちと戦わなくてはならないだろう。

 

確かに私達がかつて投稿した駄文はコピー・アンド・ペーストされ、拡散され、誤読され、改変されたかもしれない。そしてもう一度僕らのもとに回帰した時、それはより創造的に、あるいはより単純化されていたかもしれない。しかし、それは僕が日本語で書く限り、日本語話者の間で、しかもジョークが通じ、そのユーモアが共有される者の間でのみ、つまり、言語的な枠組みと文化的文脈の共有が前提となっている。なので、デリダが誤配可能性について雄弁に語るとき、それは言語の壁を超えることは無かったし、同じ言語圏の人間でも異なる文化的背景を持ったもの同士であればそのユーモアを、 良さを共有することは出来なかったに違いない。それを創造的に誤読し改変するなどもっての外である 。 (確かに翻訳を通じて、多くの創造的な誤読が行われてきたのは事実である。英米言語哲学は前期ウィトゲンシュタインのクリエイティブな誤読であり、現代大陸哲学の歴史はハイデガーの誤配であったの ではないだろうか? しかし、その速度、その範囲は今や私達を退屈させるに違いない。)  またウィリアム・バロウズがカットアップ・フォールドインという技法を使って、私たちを縛り付ける言語体系に抵抗しようとした時、その切断原則が言語の分節化という限界に突き当たっていたことは容易に想像がつく。例えば、僕たちは傘という文字をカとサというように分けることが可能だが、 そうしてしまうことで完全に意味を持たない音にまで還元されてしまう(後述するようにイメージが全面化する現代的状況においては音でなくそのイメージが重視される。カとサに分解した時にその形が可愛ければあるいはクールであればそれはまた別の意味をもってしまう)。一方、それが画像ならどうだろうか?  傘の柄だけを切断し、それまで意味を持たなかった全く無関係に見える何かと接合することで、新たに意味を、あるいは効果を創造しているのではないだろうか? バロウズが抵抗の一つの形として各々がカットアップしたジンを拡散することを推奨した事実一つとってみても分かるだろう。今や私達はコンピュータ上で制作したグラフィックを T シャツに印刷する文化に慣れ親しんで久しいが、 NY 発のweb サービス『to be』が2013年に日本で先行して発表されたことをみても分かるように (*1)、ますます容易に個々人が制作した画像イメージが日常の生活に溶け込んできている。私達 はイメージを、複数の流れの中で触発され、生成する。そしてそれを日常にネットワークを通じて拡散し、生活の中に溶けこませる。そこにはかつての言語による束縛から逃れようとしたバロウズよろしく、 イメージの支配に対するマスメディアやファストファッションへの抵抗の流れを見て取ることが出来る
だろう。

 

また、マーシャル・マクルーハンがネットワークが地球を覆うことで私達は一つのグローバル・ ヴィレッジを構成するだろうと宣言したのちの私達が実現した現在を考えてみよう。私達はバラバラのまま、流れの中で、触発し合い、バラバラの解釈で、各々の世界観を制作し、それをネットワークに流し込み、あるいは日常の中で、様々なリズムで―高速化しつづけるインターネットのリズムと生活空間 のリズムの間で―またメロディーは、解体され、また別のリミックスを待つ、ありとあらゆる作品が素材となり、また素材が作品となるような、マクルーハンの単純な見立てとはあまりにも異なった複雑で奇怪な世界ではないだろうか?

 

さて、この論考の目的は文字カルチャーから画像カルチャーに移行することで浮き彫りになった問題を整理することで、それをより創造的に解釈し、実験を行う為の一つの叩き台として機能させることである。しかし、既にメロディやファッションに言及していることからも分かるように画像だけでなく、 2010年代に入ってネットワーク上で拡張し流動し続ける画像、音楽、ファッション文化などにも敷衍的に説明し得るものであると確信している。私達は与えられた画像を見、音楽を聴き、ファッショ ンに身を包むだけでなく、自ら主体的に探しだし、タイムラインを整え、それらに触発され、自らを変 形させながら、創造する。

 

「みずからの形を受け取ると同時に自分に与えることを前提とする自己の可塑性は、不変性の維持(すなわち実際のところ、自伝的自己)と、この不変性を事故、外部、他者性一般に晒すこと(同一性は持続
するために、逆説的だが変化または事故を起こさなければならない)との間における必然的な分裂と均衡の探求を含んでいるのだ。その結果、不変性と創造が互いに対立しあうという抵抗から緊張が生じるのだ。このように、あらゆる形は 内部にそれ固有の矛盾を孕んでいる。そして、まさしくこの抵抗 が変形を可能にするのである。 自己の自己構成は明らかに、ある形、ある鋳型、ある文化の紋切り型の図式への単なる適応としては理解されえない。わたしたちは形そのものへの抵抗からのみ、みすからを形づくるのである。あらゆる形に開かれ、そしてあらゆる仮面、あらゆる立場、あらゆる態度を見に纏うことのできる多形性は、同一性の敗北しか生み出さない。維持と進化の間のいかなる真の緊張も感じさせす、純然たる模倣と性能〔=競争力〕の論理のなかで両者を混同する柔軟性は創造的では
ない。それは再生産的で規範的なのだ。」(*2)

 

 

 

1

――彷徨の配分は、神的であるというよりはむしろ魔神(悪魔)的である。なぜなら、魔神の魔神たるゆえんは、神々が闘うもろもろの戦場の間隙を縫って作戦を遂行するということ、つまり、数々の柵や囲いを越えて跳躍し、もろもろの所有地をごたまぜにしてゆくことにあるからだ。

ジル・ドゥルーズ

 

 

web2.0 とはティム・オライリーが提唱した概念で、情報の送り手と受け手が流動化し誰しもウェブ を通じて情報を発信できるように変化したweb の利用状態のことを指しているのだが、そこで主に重要視されていたメディアはブログや twitter(とはいえ最近の twitter のアップデート状況を見ていると画像が同時に四枚まで貼れるようになったり、gif が載せれるようになるなど、徐々に文字から画像へと移行してきているのが分かる。しかし、twitter が取り上げられ始めた当初期待されていたのは文字による情報伝達機能や開かれた非匿名での議論だったはすだ)などの文字の文化で、そこに知識人達 が賛同したり期待したりすることの意味合いは凄く理解しやすいものだ。その理由を端的に説明するなら、文字=エクリチュールの問題は理性を構成する上で重要な役割を果たしたという論考は定期的
に発表されるし(*3)、民主主義の成立にあたって議論という概念が果たしてきた役割はユルゲン・ ハーバーマスやハンナ・アーレント辺りを引いてきて語ろうと思えばいくらでも語りうることが出来る。 現代でも熟議民主制やら直接参加性の民主主義をアップデートする上で web 上の議論を直接的または 間接的に取り入れようという話は定期的にやってくる(*4)要するにネット上での開かれた政治/社会参加は古代ギリシアの直接民主制や近代のサロン文化の現代的なアップデートであるという類推的な発想から来ているものが多い。 しかし、私達の見てきた現実はネット上での議論は端的に言えば、議論に向いていないという呆気無い結論だったのではないだろうか。メールの意図が正しく伝わる確率は五割という研究結果も出ている(*5)。当然のことながら、私達のコミュニケーションは文字によるものだけでなく、表情や動き、雰囲気などによってその意味内容と随行文的効果が変わってくるのだから。そのようなコミュニ ケーションの齟齬が単純に感情のやりとりになったり、不満のはけ口へと向かいがちになるということは、人間が期待したよりも愚かであるということだけではなく、基本的なアーキテクチャ上の問題でもあるわけだ。

 

一方で、2010年代に起こっているのは、より良い議論を成立させる方向性ではなく、感情の偏っ た共感性を各々に集約させる方向性である。具体的には文字から画像へという一連の流れである。 LINEを見れば分かるように、感情の伝達を補完するためにスタンプという文化を導入しているし、世界的にみると tumblr や instagram、snapchat などの画像/写真によるコミュニケーションが顕著に目立ってきている、また前述したように twitter においても画像が四枚まで貼れるようになり、gif に対応するなど、画像によるコミュニケーションが全面化してきている。この背景には議論による一つの正しい真理への統合という流れから、偏った共感による有限の関係性へとその流れの方向性の分岐が起こっていることが見て取れる。また、衝撃的なことであるが、文字そのものが文字としてではなく、画像 /イメージとして可愛い、面白いという理由で、アラビア語や日本語などをあえて SNS 上で使用したり、画像のモチーフとして使用するなど、文字から画像へという流れは文字すらも画像へという段階まで進行してきている。良いねや RT のような非言語による共感のコミュニケーションの増大はその傾向の先行的な環境であった。言うなれば、これらは言語による象徴的な規範体制からイメージによる規範体制への移行と呼べるような大きな転回点にあるとすら感じられる(*6)  しかし、私が示したいのはこのような一元的に統合された議論的構築物から、偏った共感による多様な共同性へという、様々な形で言い尽くされている問題ではない。このような傾向は、ある種これまで議論尽くされている時代的傾向の現代的なアーキテクチャの元で実現した当然の形であると言わざるを得ない。個々の主体の不安定なシステム化の原因として時代的な背景と技術的な背景がある。まずは浅田彰の軽やかな整理を引用することから始めよう。

 

子どもたちというのは例外なくスキゾ・キッズだ。すぐに気が散る、よそ見をする、寄り道をするもっぱら《追いつけ追い越せ》のパラノ・ドライブによって動いている近代社会は、そうしたスキゾキッズを強引にパラノ化して競争過程にひきすりこむことを存立条件としており、エディプス的家族をはじめとする装置は、そのための整流器のようなものなのである。(*7)

 

一言で背景を要約するなら、このようにシステムを一元化する整流器の如き幻想が全体性を構築するには弱くなってしまったという背景があるだろう。確かに1960年であれば、僕たちは素朴に良い学校、良い会社、いい家庭を築くことが、私達の幸せに繋がると信じることが出来たかもしれない。 しかし、私達の現代的な背景とはドゥルーズの言うように世界を信じられないということにあるのだとしたらどうだろう?

 

現代的な事態とは、我々がもはやこの世界を信じていないということだ。我々は自分に起きる出来事でさえも、愛も、死も、それらが我々に半分しか関わりがないかのように、信じていない。(*
8)

 

そしてそのことがネガティブな意味としてだけでなく、今のインディペンデントカルチャーを支えるポジティブな意味を担っているとしたらどうだろう? 安定的な主体システムは目的によって強固に構築されているがゆえに幻想が欲求を充足する限りは強く機能する。一方でそうであるがゆえまた別の生き方を、模範的とされた生き方とは別の、正しさの外側への旅立ちを阻害するとしたらどうだろう?  さて、技術的な話に移ろう。

 

 

 

2

歴史とは形式の外側で内容に意味を与える内容を担っていた時代がある。例えば柄谷行人は哲学史は形式化における転倒の歴史であり、その転倒に意味を与えるのは形式の外にある「歴史」である、と述べていた。(*9) ここでアーカイヴの意味について再考する必要が生じるだろう。もはや我々は歴史の蓄積を形式の外側から意味を規定する構造としてではなく、検索エンジンを通じていつでも参照できる可視化されたサンプルの倉庫として捉えている節があるからである。例えば2010年代のインディペンデントミュージック・シーンの中で触れないわけにはいかないほど大きな影響力を持っている vaporwave について言及することはその一つのキッカケとなるだろう。日本では単純に80年代のサイバーパンク感のリバイバルの一つとして受け止められがちなジャンルであるが、アメリカでは80年代の日本のバブル社会とアメリカのヤッピーカルチャーをパロディすることで消費社会への風刺と 批判として機能している側面を持つ。また音楽ジャンルにとどまること無く、PV やイメージのビビットな強度はファッションなどの分野にも大きく影響を与えている。しかし、その内容に意味を与えているのは歴史そのものであるといえるだろうか? また、tumblr を中心に起こっているコラージュの流れ、 あるいは soundcloud や bandcamp を中心に起こっているリミックスの流れは単純に歴史が規定していると言えるのだろうか? むしろ、過去/歴史/アーカイヴは可視化された貯蔵庫としてあり、それに意味を与えるのは関係性・配列・文脈などではないだろうか?  私達はむしろ可視化された素材を転倒させたり風刺したりすることで意味を再構築するのではないだろうか?

 

さて、その流れを確認するためにも画像の方へと論証を進めていこう。Brad Troeme は art after social media の中で画像がリブログされるたびにその画像のもつ性質や属性が失われていくと論じている(*10)例えば、中国の著名な現代美術家であるアイ・ウェイウェイの有名な裸の画像をあるイギリスの現代美術好きが tumblr にアップしたと考えてみよう。その画像が現代美術好きの間でリブログ される間(文化的文脈が共有されている共同体の間で)、それは中国の、著名な、現代美術家であるアイ・ウェイウェイとしてリブログされるだろう。しかし、ネットワークは今やあまりにも広大で、画像であるがゆえに言語的、あるいは文化的な背景を無視して悪魔的に領土を軽々と柵や囲いを越えて横断する。数日も待たずして、日本の原宿で買い物をするのが好きな女子高生によって、面白い裸のアジア 人としてリブログされているかもしれない。また、アメリカのカンフー好きには強そうな中国拳法の使い手として切り取られコラージュされるかもしれない。Troeme はリブログされる度に性質の希釈化が起こるとしているが、私にはむしろ上記のように様々な視点からの読み替えが行われると考えるのが妥当であると考える(確かに特徴の無い著名人の画像などであれば、意味の希釈化が起こるかもしれない。しかし、特徴の無い画像がその文脈を押さえていない人にリブログされるだろうか?  私はそうは考えない)。

 

ここで重要な点は、画像文化の横断可能性の増大によって生じる解釈可能性の爆発的増化が文字から画像に移行することで生じたということだけでなく(それだけなら文字文化の中でも知識の差として生じたはすである)、解釈の複数性が増加することによって、画像を統一的に見るときに生じる意味内容の変化だけでなく、画像をバラバラに切断する際に切り取る切断の方法、解体の美学、意味の分節化のパターンが爆発的に増加するということである。またそれによって本来的な文脈では無意味としか受け取られないパターンの配列/接合が生まれるという事実である。例えばキリスト教圏の人間で
あれば、あまりにも強く意味付けられているがゆえにそれがその配置であることがあまりにも当たり前でそれを切断し、コラージュしようという考えに至るまでに時間がかかるかもしれない。しかし、キリスト教文化圏外の人間からすると、それがなんとなく面白いと感じる、カッコいいと感じるからという軽い衝動からそれをモチーフに画像の配列を描き直すことが出来る。あるいは日本人であれば至極日常的な生活の画像が、アラブの人々にとっては笑えるあるいはイケてる画像のように見え、切断し、他の画像と組み合わせ、新たに配列し直したいという衝動に駆られるかもしれない。また、本来的には無意味な接合/配列にも開かれることになるだろう。例えばアメリカ人なら明治時代のサムライを切り取り、ロスアンジェルスのラッパーやプッシャーとコラージュしたいと思うかもしれないし、そ れを見たスウェーデン人がキリスト像とピラミッドと90年代の日本のコギャルを接合したがるかもしれない。

 

これはもっとも重要な点であるのだが、ここで重要なことはその各々が構成しなおした画像そのものも高速でネットワークを漂い、リブログされ、改変されうるということであるだけでなく、人々の美的構成力そのものに直接影響を与えることであると考えれる。実際に現在、インターネットっぽいと呼ばれている作品の殆どは、このようにネットワークを漂うことで、複数の解釈や複数の改変を通じて、 複数人によってLinux 的に制作されたものではなく、一人の作家によって集められた画像をバラバラに切断し、接合しなおすことによって作られている。そのことは歴史によって意味が規定されるという柄谷行人のような人々を困惑させるだろう。つまり、端的に言えばそのネットワークの様々な価値観/関係性の束を通過し、その過程の中で自らの意味付けの体系を組み換えながら、ある種主体の構成をコラージュ/リミックスしているといえるからだ。もはや歴史が意味を規定するというよりは流れの中に内在することで、意味が生成される。それも自らのシステムを徐々にコラージュしながら。

 

私はそれを画像や音楽などの容量の多いなデータを送受信出来るような高速通信ネットワークなしにはありえなかった構成であると考えている。なぜなら、各々が構成し、ネットワークにアップロー ドした画像が作家の構成能力そのものに影響を与え、インターネットっぽい画像の構成力の源泉となっていると考えるからである。例えば、東京の美大生が暇な時にアラビア文字が可愛いからと画像にアラビア文字をコラージュする。それを見たフランスのデザイナーが富士山とセガサターンとイスラム原理主義者の画像を無意味にコラージュする。また、アメリカのギークがナイキのロゴとキリストと平仮名と観葉植物をコラージュする。その流れの中に内在することで、そういった構成のアナーキーさを内在化していくのであり、換言すれば、インターネット的画像を構成するための環境とは千葉雅也氏が いうところのメレオロジカルな切断のアナーキズムである(*11)。

 

私はこの環境の特徴として、1ある文脈から見た時の無意味な切断と接合のパターン、2それをネットワークの流れに身を内在化することで有意味化する環境そのものを生成する点、3キリストやイスラム、 あるいは大企業のロゴなど権威的な道徳観/世界観を大胆に、風刺的に用いる点。この3つが挙げられると考える。このような環境なしに、現在私達が目の当たりにしているような奇形的な画像は誕生し得なかった。もちろん、高速通信サービスの普及、CPUとメモリの強化、photoshop や illustrator などの画像編集ツールの膾炙などの技術的な背景があったことは間違いない。一方で、未だ根強くツリー 状の組織化が会社組織の一般的な形態やファストファッションの流行などからも分かるように、一元化された幻想の束縛は強い。しかし、確実に幻想の多様化(見方によっては弱体化ともとれるかもしれ ない)は生じており、その中で幻想の創造を各々が担う段階にまで来ていることもまた事実である。 そういう意味で私はこの主体の不安定なシステムを肯定的に希望を持って捉えたいと考えている。ありとあらゆる画像は無意味なモチーフとして切断され有意味に再構成されうる、あらゆるメロディはチャ ンネル毎のパラデータに解体され再構成されうる。同様に私達の主体は習慣の束にまで解体され、それを再構成しうる。

 

 

 

3

――人間たちの世界を信じない理由は山ほどある。われわれは世界を失ってしまった、許嫁や息子や神
を失うより悪いことに。

――この世界を信じること、それは内在を肯定することだ。

――耐え難いものとはもはや、ひとつの大いなる不正ではなく、日常茶飯事の恒常的な状態のことだ。

  ジル・ドゥルーズ

 

 

複雑に入り乱れた議論を整理しよう。ます、浅田彰が華麗に纏め上げたように高度消費社会の基本的な条件とはツリー状の構造といい学校、いい会社、いい家庭という浅田のいう整流器的な幻想が重なりあっていたことが条件となる。その名残は web2.0 におけるブログや SNS における議論礼賛に繋がることは指摘しておいた。一方で現在の状況は、多くの知識人たちが求めてきたものとは異なり、言語的な規範やコミュニュケーションという領域から、画像的/想像的なコミュニケーションへと移行しつつある。このことは LINE や tumblr , twitter , instagram などを眺めること、あるいは良いねや RT 機能などの非言語的コミュニケーションの登場がその先行的な環境であったと指摘した。そのことによっ て一元的/全体性をもったサイバースペースという夢は脆くも崩れ、今や偏った共感による小さな共同性の乱立という状況が起こっている。このような乱立をかつての宮台真司が指摘した「島宇宙化」あるいはその議論をうけて、各々の価値観を持ったものたちが価値観の主張のぶつかり合いを行うとして宇野常寛がいう「バトル・ロワイアル系」などと取ることも出来るかもしれない。しかし、私の議論では、宇野常寛の指摘とは異なり、現代の画像におけるコラージュや音楽におけるリミックスを見る限 り、主体の不安定なシステム化によって、それらの島宇宙を横断しつつ、自らのシステムを切断し接合することでコラージュ的に組み替えながら、自らの価値システムを変形し、制作する新しいタイプのアーティストたちの存在が見える。

 

現在、私達が対峙している状況は歴史が意味を形式の外から規定するような単線的なものではなく、ネットワークの海の中に内在化することで、不安定な主体をコラージュ的に組み替えながら、無意味な切断と接合を繰り返し、新たに有意味化する世界である。1966年、ミシェル・フーコーは今や古典となった著書『言葉と物』で、高らかに人間の死を宣言した。それは近代が定義した単一的な正しさを持った理性がもはや有効性を持たす、複数に広がった価値体系の中で、人間概念の更新を求めるものであったと言える。そうであるとするなら、今私たちが目の前に対峙しているのは何なのだろう? 私達は価値観の複数性を自明のものとし、偏った共感を元にそれを高速でブラウジングしながら、自らの体系を入れ替え、頻繁にアップロードしながら、作り変えていく。ネットワークを光の速度で漂いながら、同時に、文字通り世界のいたるところで、切断され、各々の美的感覚を元に接合されては切断され、奇形的に変態していく画像を前にして、そこに映るのはネットワークとアーカイヴが生み出した怪物なのか、それとも私たち自身なのか。私から言えることは一つである。万国の人々よ、ネットワークに内在せよ。イメージを、メロディを切り刻み、各々の方法で再構成せよ。作り上げたものをアップロードし、ネットワークへ、日常へ流し込め。鈍間な奴らがついてこれないスピードで。

 

 

*1 http://www.eyescream.jp/news-all/tobe-coming

*2 カトリーヌ・マラブー『わたしたちの脳をどうするか?』p122

*3 ベルナール・スティグレール『技術と時間I』にて、幾何や代数の始まりにエクリチュールが果たした役割について大きく扱われている。

*4 東浩紀の一般意志2.0などを思い浮かべてもらえればよい。

*5  http://wired.jp/2006/02/16/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B5%90%E6%9E%9C
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*6 このような状況を冷静に分析できていない知識人たちが言語/理性の衰退が起こっていると嘆くのは当然のことである。現在、起こっているのは言語的コミュニケーションからのある種の創造的な進化であり、言語が異なるが理性が失われているとあるいは動物化していると考えるのは早急であろう。むしろ、また別の理性が誕生していると考える方が創造的である。

*7 浅田彰『逃走論』p26

*8 ジル・ドゥルーズ『シネマ』

*9 「批評空間」II−9 p31〜33

*10 http://www.artpapers.org/feature_articles/feature1_2013_0708.htm

*11 千葉雅也『動きすぎてはいけない』形式的なメレオロジーは、形式的であるがゆえに、シュルレアリスムのごときコラージュを、まったく美的な動機づけなしに淡々と行うことができる。美なり何なりの価値をあてがうのは、後のことである。「私の鼻」と「エッフェル塔」のメレオロジー的和は、非意味的接続である。さて、「このメレオロジー的和はまた、たとえば、私の鼻の左半分と、 エッフェル塔の左半分と、私の鼻の右側半分とエッフェル塔の右側半分のメレオロジー的和でもある。分解のしかたによって部分の数は二つにも出来るし、4つにも出来るし、事実上、いくつにもできる」。 p186 私が反対するのは美的な動機付けなしにという点であり、私の論理では美的価値はネット ワークに内在することで組み替えられるように生成される。もちろん事後的にネットワークの中で別の意味付けがなされ読み替えられるのは当然のことながら、作家は流れの中で自らの価値システムを構成、解体を繰り返しているように考えられる。そうでなければ、一年に何度もtumblr の画像デザインの流行が変わることを説明できないし、増え続ける音楽ジャンルについても同様に説明できない。