オートモアイ 個展「名前を忘れることで距離をとっていた」[ 9/16 (Fri) – 10/8 (Sat) ]


 

 

オートモアイは匿名性の高いアーティストである。筆者も未だに、彼なのか、彼女なのか、そもそも”ヒト”であるのかも疑問なところである。現に私は呼び名から文章上の名称まで気を遣ってしまっているし、手に汗が滲みPCのキーボードに垂れそうになるほどの抑圧的な緊張感の中でこの文章を執筆している。勿論、私はオートモアイのステートメントの執筆を許された関係性にあり、オートモアイの仕事を深く知る人間の一人である筈なのだが、不思議な事に、未だに同氏の顔を思い出すことが出来なかった。

この文章は「永続的な退屈(Permanent boredom,2019)」と名付けられた旧テナントのTAV GALLERYで開催された展覧会と地続きの文脈をもつ。Permanent  Boredomはインターネットプロバイダが恒久性をもつ限りにおいて、オートモアイの仕事とイメージとしての”AUTOMOAI”は不死になり得ることを語った。「名前を忘れることで距離を取っていた」と題されたこの展覧会では、創作されたイメージとしての名と、伝承として与えられた名の距離、またその差異から生じた「語られることのなかった時間と実存」にふれ、何故オートモアイが不死の空間から、有限であるこの時間軸まで降り立ったのかを説明するプロセスである。

今現在、政治的な理由に基づき、Googleから事実的に追放された中国通信機器メーカーの華為技術(ファーウェイ)のタブレットには加入者識別カード(SIMカード)を2枚差し込むことができる。それは私、と編集可能な私、の二つの個人を持ち合わせる事が可能となる近未来的なユーザービリティへの応答であったし、当時筆者はこの話を聞いて興奮を覚えた記憶がある。しかしながら、一個人が複数の人格を有することなど、人間が人間であるための諸原則を裏切っているとも捉えることが可能で、ましてやSNSネイティブ世代以外にこの可能性が享受されることはまだしばらくはないように思われる。問題は編集されたイメージとしての名と、家族から伝承された名が分裂して同時に存在し得ることであって、この距離から生じる語られることのない個人の歴史が、唯一、同一性を保持していたといった点に於いて正しかった事にある。

オートモアイが忘れていたのは、両親の名である。生まれてから実の母を、文字通りに「母」と呼び続けたという。時に臍の緒が知覚する母の存在は”愛”を理解させてくれるものであったし「母」の名と彼女が辿ってきた歴史を認識することは自分の歴史が彼女から地続きに引き継がれる事を証明していた。その歴史は、繁殖と命名によって伝承され死によって途絶える。死を知覚することこそが、恐らく覆してはならない人間の諸原則であり、本展の狙いはオートモアイが現実の死を直視することと、伝承された名と、イメージとして創作された名の距離を縮め、実の血縁関係にあった家族の歴史を辿ることによって、真の個人史を成立させることにある。

筆者もまた、オートモアイの名を忘れることで距離を取っていたのかもしれない。現実に生きるオートモアイにまた会いに行きたいと思う。当展は前期と後期で作品の入れ替えが行われる。地続きな物語が展開された大型キャンバスによるTAV GALLERYでは約3年ぶりの個展となるオートモアイの個展「名前を忘れることで距離をとっていた」にぜひ、ご注目いただきたい。

 

佐藤栄祐

 


開催概要

名称:オートモアイ 個展「名前を忘れることで距離をとっていた」
会期:2022年9月16日(金)- 10月8日(土)
会場:TAV GALLERY(東京都港区西麻布2-7-5 ハウス西麻布4F)[080-1231-1112]
時間:13:00 – 20:00
休廊:日、月

レセプションパーティ:2022年9月16日(金)19:00 – 21:00

 

主催:一般社団法人TAV

 


オートモアイ / Automoai

https://auto-moai.tumblr.com/

2015年からモノクロでの作品の制作を開始。2018年からはカラーも多用し、匿名性の高い“存在”が画面 に佇んでいるような作風で知られる。極めて客観的でもありながらパーソナルな情景にも見えてくるその作風は、人間同士の関係性や、作品と鑑賞者の関係性を描いている。


 

 

 

Photo by Keisuke Inoue